青々会

亜細亜学園同窓会

青々会とは・詳細

青々とは・・・

亜細亜大学の前身・興亜専門学校が設立された昭和16年より2年前の昭和14年5月、世田谷区豪徳寺近傍の一邸(南里邸)に53人の青年が集まり、その一邸を「青々寮」と名づけて、寝食を共にする塾の教育を始めた。青々寮の名付け親は、当時の菊池武夫校長(男爵、貴族院議員、1875年~1955年)である。
この「青々寮」というのは、西郷南州(隆盛)の「山は是れ青々、花は是れ紅なり」と、中国・宋の時代(1200年代)の詩人・謝枋得の詩の一節にある「雪中の松柏愈々青々たり」の精神にあやかろうと付けられた。困苦に耐えて、いつも青々として頑張ろうという心意気を示したものである。(『亜細亜学園50年史』より)

青々会とは・・・

亜細亜大学亜細亜大学短期大学部日本経済短期大学日本経済専門学校興亜専門学校などの卒業生学校法人亜細亜学園の同窓生の会幾多の変遷を経た母校ではあるが、前身校が設立されたころは校舎もなくだけだった。これを当時は塾と言っていたが、その名称が「青々寮」であった。西郷南州(隆盛)の「山は是れ、花は是れ紅なり」と、中国・宋の時代(1200年代)の詩人・謝枋得の詩の一節にある「雪中の松柏愈々たり」から引用されたものである。いかなる艱難辛苦にあっても、なお青々として頑張ろうではないか、という意味であった。
同窓会名をこの青々会としたのは、昭和25年秋、当時南門の手前にあった第一校舎で開かれた初めての総会で。ただ名簿の作成や会報の発行を行ったものの、継続はしなかった。そして昭和33年、事務局を設置したことで定着することとなった。(昭和43年3月発行の青々会報「青々会について―新卒業生のために」より)